鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

モンスターに食い荒らされた国-vol.17-
鈴木 勝利 顧問
2009/04/10
 かつて小泉内閣で竹中平蔵氏と並んで日本の構造改革推進に一役も二役もかっていた経済学者に中谷巌(なかたにいわお)氏がいる。氏は自分が進めてきた構造改革が、今日のような負の遺産を作り出すとは夢にも思わずにきたことに自責を感じ、その懺悔の書ともいうべき『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社刊)を著している。もちろんそれまでの政府の規制による既得権益の構造、政・官・業の癒着構造に覆われている中で構造改革は正しいことであったとの信念は保っている。ただ、アメリカ主導の新自由主義・アメリカ型市場原理が、いかに格差社会を拡大させ、「後期高齢者医療制度」のように「自己責任」を隠れ蓑にして福祉を切り捨て、財源を移譲せずに地方交付金などを削減して地方経済を疲弊させ、加えてグローバル化の美名のもとに安全を犠牲にした食品輸入で国民の健康を犠牲にし、気がついたら「より多く儲けたものが勝ち組」という「カネ、カネ、カネ」の社会風土を作ってしまったことを憂いている。

 考えてみれば、時の総理大臣が「グウたらして体を悪くした高齢者の医療費を、健康な自分がなぜ負担しなければならないのか」というに及べば、もうそこには助け合いや支え合いという人間社会の基盤さえも存在しない社会になったことを証明しているのかもしれない。定額給付金を高額所得者が貰うことを「さもしい」(心がきたない、心がいやしい、心があさましいの意)という発言も、お互いが助け合う精神を失ってしまったこの国を作ったことと同じ発想から出たことなのだ。
 人と人との信頼関係や絆が失われた社会がゆえに、親が子を殺したり子が親を殺したり、自分の欲求不満や閉塞感から無差別な大量殺人を行う凶悪事件の頻発を招いているとも氏は指摘している。業者が産地偽装をしたり、危険な食材と知りつつ消費者に売りつけるという、ひたすら儲けるためだったら何をしてもいいという企業モラルの崩壊も、同じ根っこから生まれたものとも述べている。

 もともと人類がこの世に自由と規制を両立させたのは多数の幸福を図るためであった。もしすべてに完全な自由、暴力も殺人も略奪をも自由として認めたら、世の中は暴力を行使したり聞き分けのない少数の人々だけが自由になり、多数の良識的な人々のみ暴力と理不尽さに屈服して不自由を甘受しなければならない。多数者が不自由になり少数者が自由を謳歌するのである。そこで人間の英知によって、してはならないことを法律で定め、してはならないことを社会の道徳や倫理で規制することで、つまり少数者を不自由にすることで多数者の自由を担保するようになったのである。

 しかし、この自由というのは以外に厄介なもので、自由であるためには責任が伴うのである。自分のことは自分で決めるということは、逆に言えば自分のことは自分で決めなくてはならないということになる。自分で決めないで何もしなければ何にも変わらないということで、その結果も自分に返ってくるし自分で招いたことになるのである。こういう自由という性格から見れば、この制度は万事に控えめといわれる日本人には不向きなのかもしれない。作家の司馬遼太郎氏は著書『アメリカの素描』(日本放送出版協会)の中で、アメリカ人は自己表現に長けている半面、相手の心を察するという能力が弱いという。「アメリカ人の場合、自己を表現するということを、母親や学校から徹底的に教えられます。まず第一に、自己を表現しなさい。第二は、自己が正しいと思っていることをやりなさい。そして自己表現はアーティキュレイト(明瞭)に、クリア(明晰)にやりなさい。また、相手に訴えるときはパーフェクト(完璧)にやりなさい、ということを教えつづけます。そのため、相手の心を察する感覚が弱くなっているのです。

 そういわれれば職場での人間関係を重視する日本企業では、上長の成績評価について異論を挟むことに躊躇する人が多い。評価主義は個人主義が徹底してこそ始めて有効に機能する側面を持っている。評価に納得できなければ納得できるまで説明を求めることが前提であるからである。アメリカで有効だから日本でもというのは早とちりの感は免れないかもしれない。とくに「相手の心を察する」日本の美徳を否定してしまう危険性を内包している可能性もある。

 世界中の人々から「アメリカン・ドリーム」と羨望された豊かなアメリカはいまや完全に姿を消して、「貧乏大国アメリカ」と蔑称される国になってしまった。世界中を食い荒らしたグローバル資本主義というモンスターは、アメリカ最大手の投資銀行、ゴールドマン・サックスにおける同社従業員の世界平均年俸として、金融危機直前、7,000万円も与えてきた。CEOではなく従業員の平均であることに注目して欲しい。その一方で、健康保険にも入れないで病気になっても医者にかかれないアメリカ人は5,000万人近くに上っている。アメリカの要請で構造改革に邁進した日本も例外ではない。年収150万円以下が1,000万人を超え、年収200万円以下は実に2,000万人を超えてしまった。

 「こーんな社会に誰がした」と嘆いても、こうした政策を実施する自民党に政権を委ね、国会で三分の二に達する多数議席を与えたのも私たち国民なのである。
 だから構造改革などをしなければよかったかといえば、そうではないから難しいのだ。郵政の民営化一つとっても、郵便貯金や簡易保険を通じて国民から集めた多額の資金を、政・官・業癒着の温床ともいうべき公共投資への垂れ流しに使ってきた仕組みにメスを入れた意味では正しいのだが、一方で採算が難しい地方の郵便局が廃業に追い込まれ、地域住民に不便や不安を与える副作用を招いているのである。構造改革の元凶はアメリカ産グローバル資本主義だからといって、構造改革すべてを否定するのも間違いなのである。

 アメリカ型至上主義は、ついに雇用不安を招くことになった。解雇は非正規社員にとどまらず、ついに正規社員にも波が押し寄せてきている。明日の生活にも事欠く人々が次から次へと生まれているにもかかわらず、世間の日常はあまり変化を見せていない。とくに政治に限っていえば、口では100年に一度の大不況といいながら、まったく例年と同じように危機感のかけらも感じさせない。景気は気で動くからあえて気が重くならないようにという深謀遠慮からなのか、あるいはまた「何とかなる」という日本人の癖からなのか分からないが、これでこの危機は克服できるのか不安になるのは自分だけなのだろうか。
でも間違いなく救いはある。私たちの身の回りにも、世間はどうあれ自分だけでも何かをしなければと、気をもむ人々もいるからである。そうした正直な人々の労苦が報われる社会であって欲しいし、せめてそういう日本に立ち戻って欲しいと願わずにはいられない昨今である。



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