鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

自由とは「自由を否定する自由」までも認めるのか
2018/05/21

自由には責任と義務が伴うのはもちろんであるが、もう一つ考えておかなければならないことがある。「自由とは『自由を否定する自由』までも認めるのか」である。

私たちのこの社会は過去の歴史の積み重ねで今日を迎えている。それを時代の進歩とすれば、多くの国民の犠牲の上に一握りの支配者が君臨する社会から(原始社会、奴隷制社会、封建制社会、全体主義社会)、大多数の国民が主役となる社会への変化が進歩ということになる。
民主主義社会というのは、少数の権力者ではなく大多数の国民の幸福を追求する社会である。従って大多数の国民の幸福を阻害する要因を排除しなければならない。逆説的に言えば、何をしても自由だという「完全に自由な社会」とは、「暴力と狂人が支配する社会」になってしまうからである。殺人も、暴力も、強奪も自由な社会。人を傷つけても命さえも奪ってもいい自由な社会。そんな社会では暴力の強いものが自由に振舞うに違いない。つまり「力のある少数者が自由」となり、そうでない善良な大多数の国民が「不自由」になる社会なのだ。
そこで知恵を絞り大多数の国民が自由を享受できるようにするため、少数の人を「不自由」にするのである。他人の「財産を奪ってはならない」「傷をつけてはならない」「命を奪ってはならない」「騙してはならない」ことを法律で定め、少数の「暴力を用いて自分の思いを成し遂げる人」、「常識のない、不道徳な人」を不自由にして、大多数の善良なる国民の自由を保障するのである。そのために社会には少数の人を不自由にする法律、倫理、道徳などの社会的規範力を持った拘束力が必要なのである。

だからこう考えると分かりやすい。自由か不自由かは「大多数の国民」を基準として判断すればよいのである。大多数の国民が不幸になるような「自由」は認められないということだ。テロという暴力は大多数に不自由(殺人・傷害の正当化や恐怖による言論の圧殺など)を強いるから思想の自由のもとでも禁止される。表現の自由も同様である。いくら自由な社会がいいといっても、「他人の自由までも否定する自由」は認めない、制限する、つまりそうした少数者を不自由にすることで、大多数の自由を確保しているのである。

だからその境界線をめぐって論争は絶えない。「芸術かワイセツか」、「思想の自由」や「結社の自由」の境界などをめぐる論争であるが、ここでも判断基準は大多数の国民の「自由が制限されるか、否か」である。ワイセツ論議も大多数の国民が許容できるか否かできまる。国民の意識は変化をしていく。だから封建社会と現代社会とでは異なる基準になってしまうから、昔なら禁止される内容も現代では許容されることもおきる。

政治問題になるともっと厄介になる。すでに関係する政党や団体が存立しているからである。もし認めないということになれば解散しなければならないから利害が発生する。反対派の人は「表現の自由、結社の自由」を掲げ、「憲法違反」を叫んで世論や法律に訴える。マスメディアにもさまざまな考えの人がいる。賛成・反対をめぐって国内の論争は果てしなく進む。大量殺人を行った「オウム真理教」でさえ、反省しない信者も存在して今もなお立ち退きをめぐる騒動は絶えない。

労働組合にとって大事なことは「結社の自由」の問題である。組合運動を支配しようとする政党が存在する限り、思想の自由と労働組合の自主性との論争は永遠に続くに違いない。その際に重要なことは、思想の自由・政党の自由を認めることが、「政党の労働組合支配を許し、多数の組合員・国民に不自由を強いる」場合には、思想の自由・政党の自由は制限されるということである。労働組合に限らずすべての団体にとって、当たり前のことだが団体自身の自主性が外部から支配・干渉(この場合自分の方に外部の所属員が存在して、その所属員が外部団体の考え方に基づいて内部で支配・介入の言動を行うこともある)されることを排除しようとする。ところが排除の対象となる外部の政党を含めた団体にとっては(さまざまな場所に存在する構成員が排除されることも含めて)、排除されることによって自分たちの「結社の自由」、「思想・信条の自由」が否定されたことになる。その境界線がどこなのかが重要なのである。

会社という法人は事業活動を行うことを目的に設立されている。どこの会社でも就業規則を定め、遅刻は認めず、酒気を帯びての構内への立ち入りは禁止している。構成員である従業員の自由が制限されていることになるが、この基準は上記のような自由まで従業員に認めれば「正常な事業活動」、すなわち会社設立の目的が阻害されるからなのである。こうした禁止事項を含めて労働組合との合意によって規則が締結されている場合は問題にはならないが、労働組合がなく会社の都合だけによる規則の制定は労働者個人との紛争の原因になりやすい。そうした場合の合理性の判断は結局裁判に依存するわけだが、裁判になれば解決までの時間と費用から訴えは見送られ俗に言う泣き寝入りになることも多い。

組合運動においても同様で、多数によって「ストライキ」が決定されれば、組合員の「ストに不参加する自由」は認められない。認めれば「組合の存在自体が否定」されるからである。この「組合の存在自体の否定」という基準は、政党や宗教団体が絡むと少々複雑になってしまう。前述した「思想・信条の自由」との関係があるからである。しかしこの場合においても、労働組合としては「組合の自主性の確立」が基本であり、それを侵される限りにおいて毅然とした姿勢を保つべきであろう。また内部の個人の言動に対しても言動の真意が組合活動なのか政治活動なのかで判断をしていけばよいのである。
歴史的に見ても、労働組合は為政者の独裁には反対するし、言論の制限にも必ず反対してきた。だから、労働組合そのものの存在が民主主義の証ともなっているのである。ところが労働組合であっても時として独裁や言論の抑圧に抵抗しないことも起きる。

その要因に挙げられるのが、リーダーの勉強不足であったり、起きている事実の見逃しであったり、圧力に屈することなどである。もともと労働組合に限らず国民は、権力者による情報操作に際して騙されやすい。権力者は絶大な権力を握っているから国民をだます力を持っているうえに、国民にその真偽を見分けることは至難の業だ。

2003年のイラク戦争は、アメリカを中心とした有志連合軍がイラクへ軍事介入し、当時のサダム=フセイン政権を倒した戦争である。連合軍の攻撃の理由は「イラクが大量破壊兵器を保有している」というものであった。
この戦争は2003年3月20日、アメリカ軍によるイラクの首都バグダッドへの空爆を皮切りに、アメリカ、イギリス両軍による陸上部隊の侵攻や、各所への本格的な空爆がおこなわれたもので、開戦2ヶ月後の5月にアメリカ・ブッシュ大統領により「大規模戦闘終結宣言」が出された。しかし、アメリカが指摘した大量破壊兵器の発見に至らず、さらにイラク国内の治安悪化が問題となり、戦闘は続行した。ようやく2010年8月31日にオバマ大統領によって「戦闘終結宣言」と『イラクの自由作戦』の終了が宣言され、翌日から米軍撤退後のイラク単独での治安維持に向けた『新しい夜明け作戦』が始まった。そして2011年12月14日、米軍の完全撤収によって、イラク戦争の終結が正式に宣言されたのである。
 
ここで重要なのは、戦争を始める理由が「イラクが大量破壊兵器を保有している」からというものであった。結局、「大量破壊兵器」は発見できなかったということである。私たちは、アメリカが主張する「イラクに大量破壊兵器がある」ことを前提に、日本政府も国会も、そして国民もアメリカ軍による攻撃を支持していたのに、戦争が終わってから「大量破壊兵器はなかった」と言われたら、私たちも日本政府もアメリカに騙されたということになってしまう。
為政者がこうした情報操作をすることで、何万人も死んでしまう戦争が起こされることを考えるとゾッとしてしまうし、信じてしまった自分に対して悔やんでも悔やみきれない。
今やフェイクニュースが大流行であるが、自由社会において真実を見分けるのは至難の業ともいわれても、自由社会の先頭に立って民主主義を標榜する労働組合である以上、眼に見えないものであっても、真実を観ることができるよう努めることが勤めでなのだろう。