鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

日本人の心に潜む人種差別意識
2018/10/19

東京オリンピックを前にテレビや雑誌を問わず「日本人賛美論」が横溢している。私たちのナショナリズムをくすぐるのか、それらに接すると知らず知らずに心地よい自分がいる。「ああ~日本っていいな」「ああ~日本人でよかった」。そのキャッチフレーズに拍手喝采する。
自分では到底なしえない職人技についても、外国人から絶賛されているのを見て、我がことのように喜ぶ半面、その存在さえ知らなかった自分の無知に嫌悪すら感じることすらもある。

この自分が感じる「ああ~日本人でよかった」という感情は何なのだろうかとちょっと気になって仕方がない。よくよく考えてみると、どうもその根底には「外国人」を他者とすることで「日本人」は素晴らしいのだと区別している感情があるようだ。
テニスの大阪なおみ選手が、4大タイトルの一つ全米オープンで優勝という快挙を成し遂げた後、しばらくはテレビや新聞は大阪選手の快挙をたたえるニュースや特集で埋め尽くされた。
その華やかなニュースの陰でネットでは、大阪選手は「日本人」か「アメリカ人」かで意見が飛びかったという。彼女が日本とアメリカの二重国籍を持つハーフであるからか、あるいはたどたどしい日本語の発言が可愛いからなのか、話題は尽きない。
おそらく親切心からと思えるのだが、彼女に限ったことではないが、外国人が日本語をしゃべると画面にはカタカナが流される。それに違和感を持たないのは「日本人っぽくない話し方」だから当たり前という感情のせいなのだと思う。
大阪選手はハーフだから、どれだけ「日本人らしい」かを問い続けているのだろうが、その際の「日本人らしい」という基準は何なのか。「日本で生まれたのか」、「育った場所は日本のどこなのか」、「日本で暮らした年数はどのくらいなのか」、「日本語をうまくしゃべれるのか」、「日本が好きか(何を食べたいかを聞かれて、『お寿司』などの『和食』をあげれば合格)」などを基準として決めているらしい。
問う側の根底にあるのは、「外国人は他者で日本人ならこうあって欲しい」という意識に他ならない。とすれば、これはどう考えても差別意識か、偏見に近づいているような気がする。人口動態統計によると、2017年に日本で生まれた子どもの約2%は、親のどちらかが日本以外の国籍という時代なのにである。

考えてみると、地球上にいる人類は移動と混血を繰り返してきたが、定住したことによって国が形作られた。だからそれぞれの国で生活する人々を、人種などで分けること自体ナンセンスなのだが、国が作られると、言語、宗教、文化、歴史などの違いからそれぞれが「わが国」意識を持つのも当たり前になる。 おそらく国ができる前は当たり前であった混血は、国で区分され定住することによって影をひそめていったからに違いない。
私たち日本人自身も、遠い過去をたどっていけば混血に行きつく。それなのに無理やり日本人と他者を区別するから、知らず知らずのうちに差別や偏見の温床を作っていることになる。
偏見や差別は何も複雑なものではない。偏見や差別の多くは単純な考えから生まれる。一言でいえば、共通する言語や文化などを持つ仲間たちで枠を設け、他者と区分することで成り立つ。だから、偏見や差別は知性を必要とはしない単純な感情によって生まれている。
国という枠内にいることで安心感を抱けるから、その枠内にいることを証明するために、他者を「外国人」として区分すればいいのだ。実に知性などを必要としない単純な考え方なのだ。

日本の人口減少は労働人口の減少となり、その対策として外国人労働者の受け入れが必要になる。技能習得を目的に受け入れをしておきながら、技能習得を無視して「賃金の安い労働力」として酷使する企業が後を絶たない。企業経営者が法律を十分に理解していなかったなどという言い訳も、意識の深奥にあるのは発展途上国の労働者に「働く場所を提供してあげている」、「外国人就業者を助けてあげている」という差別意識に他ならない。もちろん不法就労者は厳しく取り締まらなければならないが、それと相殺されるものでもない。

もし自分の企業がこのような過ちをしたときに、労働組合の責任は重いはずである。組合のリーダーは自らの心を今一度点検し、無意識のうちに「日本礼賛」の心地よさだけに浸っていないか、場合によってはそれが「日本人」と「日本人以外」を区別する差別意識につながるかもしれないと、たえず点検する努力しなければならない。

【たとえば、オーストラリア先住民、タンザニア人、アフリカ系アメリカ人、フィジー人、コンゴ人、ジャマイカ人を同じ分類に含め、「黒人」とラベルを貼ったこぎれいな小さな箱に入れるのが、なにが悪いというのだろう?
それは、日本人、沖縄人、中国人、韓国人、フィリピン人、台湾人、中国系アメリカ人、日系アメリカ人、ブラジル系日本人、ベトナム人を、「黄色人」または「アジア人」とラベルを貼ったこぎれいな小さな箱に突っ込むのが悪い理由と同じことだ。
考えればわかることだが、これらの人々には何も共通点がない可能性が大きい。言語、文化、政治、歴史、宗教などほとんどが異なっている。すべての多様性を、(筆者注・「日本人」と「外国人」というように)1つのラベルを貼った小さな箱にまとめてしまうことは、物事をシンプルにするかもしれないが、思考過程を単純化してしまうという副作用もある。複雑な問題に対して適切な言葉を使わなければ、単純思考だけが集まる場ができてしまう。
しかし世界はつねに複雑であり、人類は今も昔もケースバイケースで物事に対処した歴史がある。それをなかったことにようとしたり、多様性を最小限化しようとすることは結果的に人種差別につながるのだ。(中略)
たとえば、日本は2016年に「ヘイトスピーチ対策法」を施行したが、この法律ではヘイトスピーチを禁止してないし、罰することもしない。禁止も罰することもない法律に何の意味があるのだろうか。】(2018年6月17日「東洋経済オンライン」バイエ・マクニール※)

【優れた文学作品に贈られる谷崎潤一郎賞の贈呈式が9日都内であり、「焔(ほのお)」(新潮社)で同賞を受けた星野智幸さんが受賞の言葉で、LGBTをめぐる企画で批判を受け休刊した「新潮45」の問題をとりあげた。「出版業界が差別の感覚に疎くなっている」「差別的な言葉が社会を動かしつつある現実を文学はないがしろにしてきたのではないか」と危機感を語った。
「焔」は憎悪や差別の言葉を物語に意識的に取り入れた連作短編集。「私たちの生きる社会が憎悪に覆われていくなか、憎悪に与(くみ)しない、憎悪に巻き込まれないための拒絶」という意志を込めた作品。「まさにその憎悪が新潮社の雑誌を乗っ取ってしまった」と続けた。】(10月11日「朝日新聞」朝刊)

※バイエ・マクニール:2004年来日。作家。ジャパン・タイムズ紙のコラムニストとして、日本に住むアフリカ系の人々の生活について執筆。また、日本における人種や多様化問題についての講演やワークショップも行っている。